NAzNAについて本気出して考えてみた
今回先生のベストに収録となった「NAzNA」。聴き込むうちに本気出して考えたくなったので壁打ち。
適当にゴニョゴニョ言ってるだけです。所謂備忘録。
以下より。
・タイトルのNAzNA
字の形だけを見ると主人を真ん中に据えた使用人たち、という図に見えなくもないかな。
・あえて小文字になっているタイトルのzの意味
zには「アルファベットの最後であるので、これより上位のものは存在しない・最終・最高・究極、などの意味」「また、Z級、Zクラスのようにこれよりひどいものはない最低最悪のという意味」(Wikipedia引用)(大文字の場合ですが)とのこと。zをあえてzuとしなかった意味がこれかな。
これより上位のものは存在しない=主人のことであり、かつ先生の最低最悪の部分=狂気の部分を表しているのかと。先生の全てを表してる。まさにAtoZ。
「私の全てをあなたに捧げます」
……の花言葉の通り、NAzNAは使用人と先生、もとい使用人と主人の歌。
しかしこの歌は徹底して使用人サイドの話を語り続けているわけで、それだけでは聞き手側は主人が誰なのかを想像しづらい。もしくは聞き手の想像によって主人像を作れるのかもしれない。
でもその想像の中の主人像を、聞き手の中で一つ(=先生の像)しか作らせないのは、この歌の持つ性質からじゃないかと思う。以下より解説。
・歌の中の「貴方」と「キミ」
歌の中での使用人の人の主人に対する呼び方は、「貴方」と「キミ」で呼び方が分かれている。語りかけも違う。そこから、やっぱり先生の二面性から来てる=先生のことだと思わせる面があると思う。
「貴方」が使われるのはAメロ、Bメロ。「キミ」が使われるのはサビ、また大サビのみ。
Aメロとかの「貴方」に語りかけるような歌詞っていうのは、捧げるというよりは一方的な誓いみたいな歌詞。
サビとかの「キミ」に語りかけるような歌詞は、難しい言葉は使われていない。まるで子供や幼子に語りかけるようなもの。そこから推測するに、捧げるのはもちろんのこと、ある種必死に主人を繋ぎ止めようとする歌詞なのかなと思った。自分たちがここにいるから、と純粋に言ってる(けど愛は重い)だけじゃないかなと。
(私が愛が重いと思う理由は、サビで歌ってる内容に依る。その内容っていうのはすごく残酷で、ほしを繋ぐ唄→契交わす唄→この身捧ぐ唄→命捧ぐ唄、と捧げるものが段階的に大きな唄になっていく。子供が次々と大きなものをねだる様、そしてサビではそれを与える様をよく表してる。他人へ無償の愛を無条件に与え続ける使用人に狂気も覚えるため。)
・光と陰
光。先生の性格、在り方、アルスとしての活動など。
陰。弟としての兄、また父親への劣等感、兄への罪悪感、様々に関する諦観、など。
光の部分が強ければ強いほど、陰の部分はより強くなる。
こう言ってはなんだけど。やっぱり先生……というよりケントの普段の生活って、陰から目を背けたいがためのあの性格だったり、振る舞い方だったりするのかなと思った。無意識で。
最初の舞台のような、使用人たちと子供のように戯れる姿っていうのはあまり年相応に感じない(まぁそれは次作の舞台もですし普段もですが、)わけで。それってやっぱりお兄様とのことがあって時が止まったままだからかな、とも、思う。
ケントの心だけはあの時のまま、アルスの活動を通して光の部分だけ強くなってしまって、結果その反動で強く影=狂気の部分が出てしまう(=武道館NAzNA)みたいな。
さて、壁打ちここまで。
メタ的に言えば、当時から先生がこの歌を好きなのは縋るような気持ちもあったのかなとか思ったりなんかして……ゴニョゴニョ。今はまぁお兄様との確執も解けてるし、好きな理由がなにもそれだけじゃないってわかるんだけど。
それでも先生がベストに組んできたってこと、私としてはどうしても勘ぐってしまうところがある。まだまだ先生の闇ってあるような気がするんだよねーーー。
私、先生のことを独りになりたくない気持ちがすごいある人だと勝手に思ってる。一人になりたいけど独りになりたくない、っていう、言葉以上の複雑な気持ちを持ってるんだろうなと思う。
そもそも先生、他人に心の内へ踏み込ませないことが上手い。それは私たちに対してだけじゃなくアルスのメンバーに対しても言える。たぶんあの舞台があるまでお兄様とのことをメンバーは知らなかったんじゃないかなぁ。(ていうかまぁ年下、しかも生徒相手にプライベートなことを話す機会もそうそうないとは思いますが。)
ともかく、先生ってそういうところに関してすごく難しい気持ちを抱えてる人じゃないかなと勝手に思ってる。多分そういうところがアルスや使用人をはじめとした皆がほっとけないんだろうし、私もその一人なんだよなー。
なんて、NAzNAを聴きつつ思いました。収集がつかないのでおわる。